2025-06-24 バックパッカー
私は
南ニ旅行ナドツマラントイフ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニ旅行好キダトイフモノアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
という振る舞いをする面倒臭い人格破綻者だ。先日も旅行が好きだという人に対してバックパッカーが気に入らないという話をしたところ、不興を買ったようで説明しろと言われた。発言には責任を追うべきだと考えているので、意見をまとめていたが、急に面倒になった。
そこで箇条書きでお茶を濁すと、
- カウンターカルチャーの香り
- 旅行は他者の生活への侵略行為という側面を持っているため倫理的責務について考えねばならない
- 同族嫌悪
になると思う。これだけでは何のことやらと思うだろうし、それに対して答える必要があるとも考えているのだが、本当に面倒になったのでChatGPTのDeep Researchを利用して補足してもらったのが以下である。
バックパッカー
反骨の香りを纏う──その幻想と身辺雑音反体制の香り
道端の燃えかすのように漂う、反骨精神の匂い。パンキッシュなバンダナ、ヨレた地図、どこか理解できないスローガン。バックパッカーたちは自分で自分を祝福する。誰もが「自由人」という凱歌を口ずさむ。だが、その自由は既製品だ。かつて反体制の象徴だったものは、今や観光マニュアルの定番コースになりつつある。「規範への挑戦」「自己探求の旅」──いかにも格好いい台詞は、空港の免税店で買った経典に刻まれている。キャンプファイヤーの周りで朗読されるビートニクの詩篇は、お洒落なキャンドルの隣で静かに燃え尽きる。祭のあと、灰と化すはずの反骨心は、いつしか手垢のついた使い古しのTシャツのように安っぽくなる。僕はそんな香りに懐疑的になる。皮肉じゃなく、ただ経験則としてだ。反体制の衣をまとった旅人を見ると、「演出している?」と問いかけたくなる。自分でもやっていたから。旅の倫理的複雑さ
ガイドブックが教える「現地住民との交流」は、時に逆の意味で現地を消費している。バックパックひとつで飛び込む先は、未知ではない。そこに待つのは、同じように「本物」を求める観光客の群れだ。 バックパッカーが撮る写真は、その地の真実を切り取るのではなく、むしろ旅人の欲望を映す鏡のよう。築き上げたイメージへの投資に、地元経済は踊らされている。例えるなら、自称アーティストが「道端の壁画」と称してただ自分の影を写しているようなものだ。宿代を浮かせたつもりが、結局はホテルチェーンの株主にお布施している。路地裏の小さなカフェで「ローカル感」を演出しているつもりでも、そこの薪は外国からの輸入だったりする。ボランティア精神で参加した果てに、地元のプロジェクトはただの自撮り舞台と化す。言葉を交わす隣人は、もしかしたら一攫千金を狙う旅行業界の関係者かもしれない。裏側をのぞき込めば、旅がモノを壊しながら織りなされる冷たい舞台だと気づく。どんなに「文化交流」「持続可能」だと唱えても、見えない消費と規範の螺旋からは逃れられない。享楽の代償は、いつも別の誰かの犠牲の上に成り立っている。自己嫌悪の鏡
それでも、否定してはいけない。僕自身、その空っぽな矛盾に取り憑かれていたから。かつて僕も「何かを得るために何かを失う旅」をしていた。だからこそ、今の自分は苦笑いする。「あのころの俺、痛すぎるな」と。夕陽に照らされたバックパックのシルエットを見て、自分の心も影絵になっている気がした。旅先で出会った理想的な自己という幻に、どれだけ思い入れを抱いていたのか。だがそれは、砂で書いた詩のようにやわであっけない。友人たちが自慢げに写真を共有しているのを見ると、胸の奥のざわめきが顔を出す。ああ、また同じ場所で同じ自撮りをしている──それ自分もやったことあるじゃないか、と。どこか醜く、どこか滑稽な瞬間を、僕も隠したい。最後に笑えるのは、この旅が僕の自己嫌悪を甘美なソーダ水のように染め上げているということだ。僕もみんなも、自分探しの旅人ごっこをやめられずにいる。だからせめて皮肉めいたこの嘲笑を、自分に向けてしまおう。失望と同じくらい自由を謳歌しているこの世界に、僕はまだ泊まる。
何のことやら